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    タグ:オメガトライブ

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    1: 名無しの時事ネタ 2024/07/07(日) 17:16:12.082 ID:vVkxZJNZd0707
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    1: 名無しの時事ネタ 2024/09/16(月) 08:02:15.51 ID:TSrsXNAj9
    80年代の「オメガトライブ」は「そろそろ潮時」で解散…杉山清貴が移住先で受けた「スタジオにショットガン」の衝撃
    2024年09月15日 デイリー新潮



     3月から5月にかけて開催された「杉山清貴&オメガトライブ ファイナルツアー」を終えた杉山清貴(65)。1980年代のシティポップを牽引した一組でもあるだけに、彼らのサウンドを心待ちにしていたファンが会場を埋めた。もちろん杉山もまた、このメンバーで演奏することの心地よさを改めて実感したという。

     とはいえ、杉山清貴&オメガトライブは80年代の活動期間がわずか3年足らず。鮮烈な印象を残したゆえに、その短さを意外に思う人も多いだろう。杉山のロングインタビュー第1回では、デビュー前からオメガトライブ時代、米国移住までを振り返る。

    (全2回の第1回)

     ***
    ■コンテスト入賞もデビューにつながらず

    (※中略)

    ■自分たちを出せるのはライブ

     杉山清貴&オメガトライブは1983年4月、シングル「SUMMER SUSPICION」でデビュー。1985年末の解散まで3年足らずという短い活動期間に、シングル7作とオリジナルアルバム5作をリリースし、人気を博した。

    「オメガの曲は、自分たちがやりたい世界だった。自分で作れたらああいう曲が欲しかった」と杉山。藤田がプロデュースし、シングルA面の7曲は全て康珍化作詞、林哲司作曲で世界観が作り上げられていた。(※中略)

    ■ソロの自分を想像できなかった

     結果的に3年弱となったオメガトライブとしての活動。「メンバーのみんなで何となく年月を重ねていくうちに」バンドを解散する話が誰からともなく出てきたと振り返る。

     杉山自身も「人の楽曲でおいしい思いはしたけれど、アルバムの中で数曲を書いたとしてもアレンジは別の人。それではやはりバンドとしての色が出せない」という思いを抱えていた。

    「このまま林さんの楽曲で行って。時代が変わってヒットパターンが変わったらどうなのかな。ぼちぼち潮時かなと」

     当時の杉山らは20代半ば。「今やっている音楽じゃないものをやりたいのなら、今のうちに形にしておいた方がいい」「30歳になるまでに何かしら形にしておきたい」という考えは強まっていく一方だった。

     杉山自身は「バンドが好きでバンドがやりたくて音楽をやっていた。自分の作品を発表したいという気持ちも全くなく、バンドの中で楽しくやれればいいかな」という考えもあり、解散後は別のバンドをつくろうかなというノリでいた。だからこそ、ソロデビューの話には「慌てた」という。

    「ソロアーティストという感覚自体が分からなくて。1人で何かをやるということが想像できなかった」

    ■米ロサンゼルスに「住むしかない」

     ソロではデビュー曲の「さよならのオーシャン」をはじめ、自身でシングル曲を書くことになったが、オメガトライブ時代に「がんばって曲を書いててよかった」という。

     オメガトライブのオリジナルアルバムの4枚目「ANOTHER SUMMER」では2曲、最後のアルバム「FIRST FINALE」では3曲、杉山作曲の曲が収録された。「プレッシャーはあったけど、楽曲の作り手としても認めてもらえてるんだな、と感じていた」という。

    「(当時の曲は)もう林さんの見様見真似。ギターを弾きながらコード進行はこうなのか、とか思って。その中から吸収していったものをこういう風に書けばいいかな、というものを形にしました」

     ソロデビュー以降は、当時好きだったアーティストや洋楽のニュアンスも交えたような曲もどんどん書けるようになっていった。

     1989年、アレンジャーの新川博の紹介で、米ロサンゼルスでレコーディングを初めて行った。翌年には米キーボードプレーヤーでアレンジャーのトム・キーンに直接連絡を取って、レコーディングのためロスに赴いた。「好きな音楽があるロスに住んじゃおうかな」という考えはすぐに「住むしかない」と変わり、弁護士を紹介してもらってグリーンカードを申請、取得することができた。

     しかし1992年春にはロサンゼルス暴動が起き、ロスは騒然とした雰囲気に。暴動後のレコーディングスタジオにはショットガンが置かれるようになるなど、杉山は世の中の流れが変わったことを実感していた。

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